理容とは、

 全国理容生活衛生同業組合連合会加盟店

屋号(名称・ネーミング)
理容○○、○○理容、○○理容店、○○理容室、○○理容所、理容○○院、○○理髪室、○○Hair○○、○○Hair、カット・スタジオ○○、カット&パーマ○○

※[特例屋号](名称・ネーミング)
○○館、おしゃれの店○○、おしゃれサロン○○、オシャレサロン○○、メンズサロン○○、CUT○○、Cutting○○、○○○○


理容[りよう]
「容姿を整える」という意味の語。1947年(昭和22)理容師法が制定され、そのなかにも「理容とは、頭髪の刈り込み、顔剃(そ)り等の方法により、容姿を整えることをいう」と定義されている。


 西洋における理容(理髪)の歴史は紀元前にさかのぼる。バビロニアのハムラビ王(在位前1728~前1686)が制定したハムラビ法典に理容を業とする者の記述があり、おそらく職業の歴史ではもっとも古い部類に属するといわれている。この法典のなかに、医師の補助者として、外科手術や歯の治療なども手がけていたことが記載されている。中世になると、傷の手当てや血液をとることなど、外科一般の業務も含まれるようになり、これを理髪医者の職業として確立させるようになった。その後、ルネサンスの時期になると、医学の分野でもラテン語の読解力が重視されるようになり、ラテン語の語学力をもつ者と、もたない者とが区別されるようになった。古代の文献などを理解する力の重要性が強調されたからである。ラテン語能力のある者が医学を中心とした医者理髪、ない者を理髪を中心とする理髪医者というように、社会的地位の差を設ける習慣が生まれた。理容の仕事と医者の仕事が専門職としてはっきり区別されたのは、ルイ14世(在位1643~1715)の時代になってからである。現在、理容店にみられる赤・青・白の縞(しま)模様の標識(サインポール)は、動脈、静脈、包帯を表した当時の名残(なごり)であり、バーバーはラテン語のbarba(あごひげ)からきたものである。


 一方、理髪という語が日本で用いられたのは平安時代で、『有職(ゆうそく)故実』(古来の朝廷や武家の礼式、典故、官職、法令などを収めた本)の「元服の儀式」の項に「理髪役」として記載されており、「髪を結い、髪をおやす(切る)人」とある。この理髪の語源は、中国語の理髪(リーハー)から発したものとされ、一般には1879年(明治12)に「理髪人」と記した営業鑑札が発行されてからである。さらに1901年(明治34)3月「理髪営業取締規制」が警視令第11号で公布されて公的なものとなったが、35年(昭和10)12月に同令第29号「理容術営業取締規制」が出され、理容業として公的に確立された。また47年(昭和22)の新憲法施行に伴い、それまで内務省令による警察管理下であった理容業が、環境衛生の立場を考慮に入れ、厚生省(現厚生労働省)の管理下に置かれるようになった。理容店の休日に月曜日が多いのは、第二次世界大戦中の電休日が、そのまま休日として定着、現在に至っている、という説もある。近年、日本における理容業界の発展は著しいものがあり、海外理容業界との交流も活発に行われ、世界規模による技術のコンクールも数多く行われている。その技術水準はトップクラスであり、いまや日本の理容技術は世界の理容をリードしているといってもいい。


 また、髪を刈る、洗う、ひげを剃るという実用的な理容から、ヘアファッションを重視するヘアスタイリスト・サロン、ヘアケアを重視するヘアクリニック・サロン、高級指向型のソシアル・サロン、地域密着性のファミリー・ヘアサロンなど、業種から業態への専門店化が進んでいる。特殊な例としては、男女の若者を対象としたユニセックス・ヘアサロンなども出現し、新しい理容に向けての機能の拡大や技術革新も進行中である。


 現在の理容の方法(技術)を大別すると、整髪技術としては、カッティング(散髪)、セッティング(調髪)、シャンプー(洗髪)、トリートメント(療髪)、ヘアダイ(染髪)、ウィッグ(かつら)、アイロン、メンズパーマなどがあり、顔面技術としてはシェービング、フェイシャル・マッサージ(美顔術)、ムスターシュ(整髭(せいし))などがある。これらの技術は、ファッション的要素、情緒的要素、医療的要素のほかに、薬粧品や刃物、電気器具などを使用するので、科学的な知識や衛生的配慮が要求される。西欧では理容と美容が法律上一体となっている国と、日本のように法律上区別されているところもあり、世界的傾向としては、両者を一つにすることを望む声が多い。[坪内靖忠]
『坂口茂樹著『日本の理髪風俗』(1972・雄山閣出版)』
[参照項目] | 理容師


追記、
床屋[とこや](一般に現在は理容室、調髪所ともいうが、まったく無関係で別なものです。)
髪結床(かみゆいどこ)の略称。室町時代から男子の調髪、髭(ひげ)、月代(さかやき)を剃(そ)った職業。元来、男の髪は総髪で、高貴の間では冠下髻(かんむりしたのもとどり)とし、庶民は簡単な束ね髪であった。武家社会となって、互いに勢力を競って戦いを挑み、その戦乱が長く続くと、武士は髪の蒸れるのを防ぐために月代をあけるようになり、その月代が大きくなるにつれて、職業としての床屋の需要が生じた。それまでは毛抜きを用いて抜いたので、血だらけになったことが南蛮人の記録にある。床屋としての最古の絵画は上杉(うえすぎ)本『洛中(らくちゅう)洛外図屏風(びょうぶ)』にみられるので、永禄(えいろく)~天正(てんしょう)(1558~92)のころには職業として成立していたといえる。当初の床屋の仕事は、月代の毛を抜くことにあった。それが髪を結うようになったのは天正年間も終わりごろからであり、当初は一銭剃(ぞり)、一銭職ともいわれた。江戸時代に入って江戸の町ごとに株仲間ができるようになり、滑稽本(こっけいぼん)『浮世床』にみられるように繁盛していき、文明開化とともに洋風の床屋に変わっていった。[遠藤 武]



上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏』国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。
電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー


上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。
(※蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事第一巻生活編、第六巻服飾編)
 
※その他
[一般的な表現及び名称]
理容、理容店、理容所、理容業、散髪、散髪屋、散髪業、理髪、理髪店、理髪業、バーバー(BARBER)

[特殊な表現及び名称]
床屋、床屋に行く、頭切りに行く、髪切りに行く、チョキチョキ